四天王寺参拝記?

  • 2010.04.24 Saturday
  • 11:00

『日本書紀』に見る創建の経緯 』 


四天王寺様には毎月経木を書いて、先祖供養に行かせていただいております。

今回はまずその歴史から書いてみたいと思います。

 

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものです。その草創については『日本書紀』に次のように記されています。
 

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生しました。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(東大阪市布施)へ攻め込みましたが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだとりで)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却しました。

聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ、当時14歳)は蘇我氏の軍の後方におられましたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木をきって、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺を建てる」という誓願をしました。

その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わったのです。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかりました。

寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたといいます。

 

また、異説として当初の四天王寺は現在地ではなく、摂津の玉造(大阪城付近)の岸辺にあり、593年から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もあります(森之宮神社の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとしている)。

 

また、山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もあるようです。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされています。
                    

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